MIZUMA ART GALLERY


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EXHIBITION ⁄ 展覧会・イベント

2004/01/14 - 2004/02/14
松蔭浩之「奇跡の人」キュレーター:工藤キキ

さて、ミヅマアートギャラリーでは2004年正月明け第一弾展として、ミヅマでは2年ぶりとなる松蔭浩之個展「奇跡の人」を開催することとなりました。
2000年に開催した「STAR」展では、200名の女性が叫ぶ顔に囲まれた会場で、中央にあるマイクに向かって叫ぶとその女性達の歓声が聞こえてくるという作品を、2002年の「ECHO」展では松蔭が会期中毎日延々とガラス瓶をたたき割るパフォーマンスとその割れる音に反応させ会場中にガラスのくだけ散る音がエコーし、ストロボが点滅するという耳と眼どちらの感覚も麻痺させるような作品を発表してきました。これまでの二回の展覧会はどちらも松蔭や観客がパフォーマンスをすることで成り立つインスタレーション作品でしたが、続く三回目となる本展ではゲストキューレーターに小説家の工藤キキを迎え企画された、「マツカゲ」の、高校時代から現在までに撮った「マツカゲの、マツカゲによる」セルフポートレイトだけで構成する展覧会です。
「女性のポートレイト」と並行しながらずっと続けてきた「セルフポートレイト」シリーズは、多彩な活動を展開する松蔭浩之を語る上で、最も松蔭の核に近い部分であるにも関わらず、これまではあまり深く言及されてきませんでした。それを本展で「アーティストの本質を見抜く女」工藤キキが読み解きます。

 

**「奇跡の人 松蔭浩之」について。工藤キキ(本展ゲストキュレーター)より**


「キキはさ、まっちゃんのポートレイトどう思う? 」

「……。」

ズバリな返しをしようと思ったが、すぐさま答えがでてこない。なんも思い浮かばないわりには、んな質問をぶつけてきた女史に、それを悟られるのもシャクだしと、伏し目がちでコーヒーをすすり、サリ気なく話題を変えてみようと、これまでの松蔭さんのことを振り返ってみたのでした。
細見画廊で、レントゲンで、水戸芸で、ミズマで……んで、ちょうどこの会話をした頃、私事で恐縮ですが康ギャラリーという場所で一年間だけキュレーションをとうものをやっていて。2003.1.15に「松蔭浩之のボディ・ランゲージで人はどれだけ突き動かされたのか? 」という実験めいたOne Day Exhibitionならぬ、松蔭さんの指揮で、松蔭浩之のアンセム13曲を有志50人で歌う「A CHORUS RUIN」という合唱会をした直後だったのでした。
企画者としては「松蔭さんが指揮棒ふりまわしちゃったりして、ムフフフフ」と、面白いパフォーマンスを期待するぐらいのもんだったのでしたが、蓋を開けてみれば、期待を裏切る歓喜感動の大合唱。松蔭さんが口を酸っぱくするほど言い放つ、松蔭浩之の作品を理解する為には「俺を追体験してくれ。」との言葉の真意がヒシヒシと伝わる、素晴らしい時間となったのでした。が、終りよければすべてよし。のそれ以前。
 
この一日をどう作品に落とし込むか? に関しては意外にも、こちらにおまかせで。それは、企画者の私を信じて頂けている嬉しいことでもあるけど、私としては松蔭さんの作りたい状況があって、それを、あーしてこーしてと言われながらアシストすることが私の役割だと思っていたんですが。とはいえ、この企画は私から投げたものだし、松蔭さんがノッてくれたことにより成立したということもあるんだけど。「アーティストなのに、意外とこだわり無いのねぇ」と思ったりしながら、勝手にライティングを調整したり、合唱の記録というか作品を残すべく、録音、編集、CDのプレス、ジャケットのデザインも、現場で、その道のプロの方々にしてもらう手順を組み、歌ってくれた皆さんにCDをお持ち帰り頂く、といった実に学芸会的ながらも一応、落とし所を考えたりしたのでしたが。んなことをフワっと思い出したりして。その、コーヒーをすすりながら、なんですが。で、で、何が言いたいかというと。 その「アーティストなのに、意外とこだわり無いのねぇ」というのがアーティストとしてNGなのか? と言ったら、そんなことはなかった。作品としての見せ方、作品を機能させるための手段を考えてないアーティストはNG。なんてこともなかった。それよりも、んなことがフッ飛ぶような“驚き”の重要性に気づかされたのでした。 その“驚き”ってやつは、私が予想だにしなかった歓喜のフィナーレが待っていたことなんだけど。なんか矛盾してるかもしれないが、私はコンセプト重視の作品が好きで、というより、落とし込みというコンセプトがはっきりあれば、絵なり写真なりといった“物質”というカタチになってなくてもいいぐらいの。この人だけしか考えつかないコンセプトの面白さにARTを感じたりするのです。
で、その松蔭浩之にしかできない「A CHORUS RUIN」という合唱会をするとはいえ、落とし込みとしての作品をどうするかと考えた揚げ句、CDにまとめるという行為をし、結果的にそれは物質化することになったんだけど。でも、んなことよりも、予想もしなかった結末が待っていた、それを体感できたことの方が、実にARTな状況だったりしたわけで。ってことは、「A CHORUS RUIN」の落とし込みをどうするかと考えあぐねたことって、あらま野暮天だったんだなぁ。だって、松蔭さんの十八番のセリフ「俺を追体験してくれ。」こそが、松蔭さんのすべての作品における揺るぎないコンセプトなんだもん。つーことは、もはや何をしてもいい、何をしてても作品、になってしまうのか松蔭浩之は! とはいえ「俺を追体験してくれ。」に対して、又は松蔭さんに対して、「本当に自分好きで結構なことですね」といったナルシシズムの権化(?)がコンセプトだとは思っていません。 ナルシシズムとか自己愛とか、精神分析で語ってしまうことほど容易く、そして安
易だ。そんで、私にとってはつまんない。離婚や結婚で素性を語るワイドショウと同じもんかなと思う。ナルシシズムは松蔭さんという人の、些細なディティールでしかない。


松蔭浩之を追体験することで、私の中の答えは見いだせない、それは私の追体験じゃないから。松蔭浩之という他者だけが持つ、私が知ることのない価値観を感じるというだけで、未開の地に足を踏み入れた時の驚きでしかない。 んな松蔭さんを、いくら「追体験」しようとも、共感や依存には向かわない、毎度なんだかわからない底知れぬ“驚き”でしかない絶妙なサジ加減が、松蔭さんを追体験したくなる要因なんじゃないかなぁ。私以外の他者を容易く理解をしないというのが、いつまでも他者にワクワクできることが、リスペクトするってことだと思うし。
 
んなわけで、生き馬の目を抜くアートの世界で、誰しもが、思考を巡らせ、自分自身にしかできない、明解な答えを封じ込めたマスター・ピース(代表作)という宝探しをする中、松蔭さんにはマスター・ピースなるものはない。んじゃなくて、カタチこそになってはいないだけで、また、今なお更新中であるだけで、「俺を追体験してくれ。」と言い放ちながらの細かな活動をすべてひっくるめたそれこそが、松蔭さんにとってのマスター・ピースなんだな。ともあれこれは人生論ではない。 その指揮棒を振り回した「A CHORUS RUIN」以外にも、松蔭浩之は自身の現代美術論・写真論という考えを方を、写真という物質に落とし込んで作品を作ってはいるが、よく見てみよう。松蔭さんがひとりで写っていても、どんな美女や巨乳が横にいようとも、何かの記念に撮られた大勢の中の一人であるスナップ写真であっても、時に永ちゃんのモノマネをしたものや、Suicidal Tendencies に憧れて撮ったポートレイトが1ミクロンも似ても似つかない、いや、スの字も思い浮かばないようなものでも。そして、写真に松蔭さんが写ってなくても、そこには松蔭さんしか写っていない。 美しい女性を撮るという行為は、美しい女性を撮っている“俺”という人間の表現である。美しい女性はより美しく、その美しさを真空パックすることが松蔭さんの表現ではない。ピントはいつも“俺”に絞られている。この事実。この驚き。もはやこれは、いわゆる写真ではない。写真という姿を借りた、松蔭浩之という人物が誘発する、常識では計れない“驚き”という「奇跡」しか見えない!!! 唐突だけど。 んだけども、奇跡に理由はいらないのです。奇跡はネタありきのマジックとは違う。
思い込みだ。それが勘違いであっても、思い込みに突き動かされてしまえることが「奇跡」であって、そんな思い込みに大手を振れることが現代美術の美徳でもある。あってほしい。でもって、もし奇跡に“理由”が必要だと思うのであれば、精神でも分析して既存の確かな答えを信じればいいんじゃないかな。

ってこれが「キキはさ、まっちゃんのポートレイトどう思う? 」の返答です。
 
んなわけで今回、高校時代から現在までに撮り溜めたポートレイトを今一度、横一列に並べることで、松蔭浩之の「奇跡」を追体験する「奇跡の人 松蔭浩之」展を開催することとなり、で、僭越ながらゲストキュレーションをやらせて頂くことになりました。
今まで、松蔭さんに対するギモン、「今までなんでこの人自分のポートレイトばっか撮ってんだろう」など、色々とあったかと思いますが、これらをすべて「奇跡」思い込んでみたら、胸の支えはすべてとれるでしょう。「奇跡」という思い込みで胸を閊えながら、もう一度、松蔭浩之のポートレイトを見ることで、その奇跡の筆跡というものを感じられたら、と思うのです。       

 

工藤キキ(文筆業)