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荻野夕奈「RELATE」 @Mizuma & Kips、ニューヨーク

2021年11月10日(水) - 12月07日(火)

荻野夕奈の個展「RELATE」をMizuma & Kips(ニューヨーク)で開催いたします。

本展覧会では彼女がコロナ禍の日本で描いた最新の作品を発表いたします。

人との交流、行動の制限などを強いられた1年半、自宅での生活が中心となり、その中で今まで気づくことがなかった微かな喜びや幸福感を感じられたという。

 

今回発表する作品群では人物や花々から固有名詞を消し去るように抽象化し、絵画の中でそれらを関係づけるように描かれている。人種やジェンダーなど特定せずプライベートな空間でのささやかな心の繋がりに焦点を当てている。

 

<会期> 2021年11月10日(水)ー12月7日(火)

<開廊時間> 12PM – 6PM

<休廊日> 月曜、火曜(ただし、12/6、12/7は開廊)

<会場> Mizuma & Kips、ニューヨーク

(324 Grand Street, New York, NY 10002)

 

オープニングレセプション:11月10日(水)6PM – 8PM

 

https://www.mizumakips.com/current

 

オンラインカタログ

荻野夕奈展「RELATE」のオンラインカタログはこちらからご覧いただけます!

https://mizuma-art.co.jp/wp-content/uploads/2021/12/OGINO-Yuna_e-catalogue.pdf

本カタログでは、アートジャーナリストの藤原えりみ氏にご寄稿いただいたテキストも掲載しております。

 

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手が織り上げる未知なる宇宙

藤原えりみ

 

 花あるいは花と組み合わされた女性の顔や身体の一部、そしてヌード像。いずれも西洋絵画の歴史においては伝統的なモチーフなのだが、花も人物も「それ」と認識できるものの、具体的な描写を捨象した抽象的な形態へと再構築され、「形」の連鎖としてのリズムを描き出す。

 荻野夕奈作品の前に立つと、塗り重ねられ、時には削り取られ、布で拭われたり指でなぞられたりもする絵の具の繊細にして複雑なマティエール、そして自在に飛び交う線や筆のタッチ、さらには鮮やかで軽やかな色彩の響き合いに目を奪われる。

 近代以降の絵画においては「何が描かれているのか」よりも「どのように描かれているのか」が重要な課題となってきた。18世紀以前は、筆のタッチも絵の具の物質性も極力排された滑らかな仕上がりが絵画の完成形態であった。だが、印象派以降の画家たちはその両者こそが「絵画を構成する基本要素」と直感的に把握したのだろう。手の動きの痕跡と絵の具の扱い方に画家の個性が刻印されるようになっていく。20世紀半ばには、具体的なものの再現イメージを徹底的に排除した抽象表現主義が登場し、キャンバスに残された画家の身体的行為の痕跡としての「絵画」が生まれることになる。 

 だが、抽象的でありながらも花や人物という具体的な存在にこだわる荻野作品は、具象か抽象という20世紀の絵画史における二元論を超える試みだ。彼女の作品の魅力、冒頭で触れた彼女の作品独特の絵の具の扱いと濃密なマティエールについて思い巡らせているうちに、ふと、美術史研究家のバーナード・ベレンソン(1865-1959年)提唱の「触覚値」という言葉が浮かんだ(1)。美術鑑賞において描かれたものの視覚情報から触覚や運動感覚が刺激され、「それに触れてみたい」あるいは「その周りを歩き回ってみたい」と感じさせる作用を指す。

 ベレンソンの触覚値は鑑賞者に作用するのだが、作り手もまた触覚をベースに作品を構築しているのではないかと考えあぐねていたところ、フランスの美術史家、アンリ・フォシヨン(1881-1943年)の論考が記憶の奥底から蘇ってきた。

 

 「芸術家は…(中略)…まさに触覚言語から視覚言語を組み立てる—-熱い色調、冷たい色調、重い色調、軽い色調、固い線、柔らかな線。…(中略)…バーナード・ベレンソンが定言化した触覚値という概念を、私たちはもっと拡張するべきである。…(中略)…触覚値は、あらゆる創造のまさに出発点に働いているものなのだ。」(2)

 

 荻野は、絵画制作の過程を濃縮して2〜3時間で実演するライブペインティングの後に筋肉痛に襲われるという。大きな刷毛を用いて大胆な動作で絵の具のタッチを残す、ペインティングナイフで絵の具を削る、指で絵の具を画面に塗りこめる等々の作業は、まさにキャンバスと荻野の身体との渾身の格闘といえるだろう。私たちが作品として目にするのは、荻野自身の身体と手の動きの痕跡であり、制作に費やされた時間の蓄積である。

 

  「手が出現させるのは、虚空にふわりと浮かんだ厚みのない亡霊ではなく、一つの実体であり、厚みを備えたものであり、有機的な構造物である」(3)

 

 「精神が手をつくる。そして手が精神をつくる。…(中略)…それまではどこにもなかった宇宙をつくり出しながら、手はその宇宙のいたるところにみずからの手型をのこす。」(4)

 

 絵の具の層と色彩の共鳴が生み出す荻野作品の魅力を、フォシヨンほど見事に伝えるテキストはありえないと思う。私が何か書き添えることができるとしたら、女性画家が描くヌード(特に女性ヌード)についてだろうか。西洋美術において、男性画家や美術愛好家によって形成されてきたヌード像の多くは性的な魅力を兼ね備えた女性の裸体である。

 この長年続いてきた慣習を打破したのはモーリス・ユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938年)だ。19世紀末になっても、美術学校や画塾において女性は男性の裸体デッサンを禁じられ、新興の中産階級出身の女性画家は街での独り歩きも、女性の裸体モデルを雇うことさえもタブー視されていた。労働者階級出身のヴァラドンは息子や再婚相手をモデルに男性ヌードを描き、また数多くの女性ヌードを制作した。過去に幾重にも重ねられてきたエロティシズムのベールを取り払い、ヴァラドンはモデルの存在感を直裁に描き出す。ヴァラドンに始まる男性目線とは異なるヌード像は、荻野とは異なる描写力を駆使した画風ながら、アメリカのシルヴィア・スレイ(1916-2010年)やイギリスのジェニー・サヴィル(1970年-)へと受け継がれてきた。そして荻野もまたこうした系譜を継ぐ画家の一人と言えるだろう。

 その試みが描き出す「手がつくりだす宇宙」はどのような宇宙となりうるだろうか。期待をこめてある詩の一節を掲げてこの論考を締めくくりたい。  

 

 「そこにすべては整いと美と/栄華と悦楽と静けさと。」(5)

 

【註】

(1) Bernard Berenson, Florentine Painters of the Renaissance, 1896

(2) アンリ・フォシーヨン著・杉本秀太郎訳「手の賞賛」(『形の生命』所収 pp.179 -180岩波書店 1969年)

(3)前掲書 p.199

(4)前掲書 p.204

(5)シャルル・ボードレール「旅への誘い」(福永武彦訳『シャルル・ボードレール全集1』所収『悪の花』より 1963年 人文書院) 

 

参考文献

金田 晋「触れる–美的経験論試論(1)–」(広島大学総合科学部紀要.I,地域文化研究,広島大学総合科学部, pp.183-199, 1976.3-2005.12)

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